月報 「聴診器」 2025/06/01
前回の「聴診器」の文章はいかがだったでしょうか。情熱的でポジティブで、説得力があったと思いませんか。実は前回の文章はChat GPTに書いてもらいました。だいたいの内容を箇条書きにして、文字数を指示しています。自分で書くよりも、テンション高めで、少し気恥しく感じましたが、うまくまとまっていましたね。
34 書評 ①「病の皇帝『癌』に挑む」シッダールタ・ムカジー
この「聴診器」は僕なりに病気の話を分かりやすく身近に感じてもらうため平成15年から書き始めました。ちょっと少し病気の話から外れて、僕が読んで面白かった本の紹介をしていこうと思います。主にサイエンス・ノンフィクション、特に医学関係が多くなっていく予定です。
一冊目は、シッダールタ・ムカジー著『病の皇帝「がん」に挑む』です。がんという疾患の歴史と、それに挑み続けた人々の営みを描いたノンフィクションです。著者は米国の腫瘍内科医であり、研究者でもあります。その立場から、がんの古代から現代に至るまでの変遷を丹念にたどりつつ、臨床と研究、個人と社会、希望と限界とが交錯する風景を描き出しています。単なる治療法の年表ではなく、その背後にある思想、文化、制度、さらには偶然や執念といった非科学的ともいえる要素までが網羅されており、がんを巡る歴史がいかに人間的であるかを実感させられます。
印象的だったのは、白血病治療の草創期を切り開いたシドニー・ファーバーに関する章です。彼は病理解剖医でありながら、当時ほとんど治療法のなかった小児急性白血病に対して葉酸拮抗薬の投与を試み、初の寛解をもたらしました。この行動は、当時の医学界においては異端とも受け取られたようですが、その後の化学療法開発の端緒となりました。なお、著者ムカジーは、その後設立されたダナ・ファーバー研究所でキャリアを積んでいます。
また、生物学的製剤の登場、とくにイマチニブの開発と承認過程は、個人的にも非常に関心を引かれました。CML(慢性骨髄性白血病)という血液のがんの一種がありますが、昔は有効な治療法がなく緩慢な経過で死を迎える病気でした。しかし、染色体の組み替えによる異常蛋白が病因とわかってから事態が動き始めます。異常蛋白が無制限に細胞増殖を促すスイッチを押していたのです。その後、イマチニブがこの異常蛋白の動きを制限することが分かり、治療成績を飛躍的に改善させます。この分子標的薬は、現場におけるがん治療の見方を大きく変え、現在に至る抗がん剤の進歩の嚆矢となったのでした。僕自身も臨床医としてその変化を目撃していましたが、本書で語られる開発者たちの取り組みや製薬会社との交渉の経緯には、感慨を新たにしました。
ムカジーはがんを「皇帝」と呼びますが、それは恐怖や権威といった意味合いだけでなく、がんが人間の生命活動と深く関係していることをも示しています。がんは自己の細胞が変化し、分裂を制御できなくなる病であり、生命の根本的なしくみと切り離せない存在です。だからこそ、本書は生物学の書でもあり、人間の身体と限界に関する哲学的考察でもある。このスタンスは、続編でもある「遺伝子」や「細胞」でより濃く反映されています。こちらもおすすめです。
すでに閉院してしまわれましたが、東郷橋のたもとで開業されていた崎村先生と本書の話題で盛り上がったことを、懐かしく思い出します。文体は平明で、科学的な内容でありながらも読みやすく、一般読者にも理解しやすい構成になっています。医療関係者はもちろん、多くの方に勧めたい本です。
上野循環器科・内科医院 上野一弘