昨年秋から少雨傾向が続き、福岡県では水不足が心配されていました。3月以降は時々雨が降るようになり報道も下火になっていましたが、実は6月上旬まで福岡県のダム貯水率は50%を下回っていました。6月下旬に雨が続き、やっと貯水率は70%を超えるようになっています。大雨による水害も困りますが、今のところは「慈雨」と言えるのではないでしょうか。
34.書評⑭ 中屋敷均著『生命とは何か』
前回紹介したデイヴィッド・クォメンの『生命の系統樹』は、生命誕生から現在に至る壮大な進化の歴史を描いた作品でした。一方、今回取り上げる中屋敷均著『生命とは何か』は、生命全体を俯瞰するというよりも、「私たち一人ひとりの個体とは何か」という問いに焦点を当てた一冊です。
本書でも細胞内共生や寄生に関する数々の興味深いエピソードがたくさん紹介されています。腸内細菌叢のように私たちの体内で共存する微生物たち、ハリガネムシに操られて水辺へ向かうカマキリ、トキソプラズマ感染によって行動が変化する動物たちなど、生命は決して独立した存在ではなく、他の生物との複雑な関係の中で成り立っていることが示されます。
さらに著者は、ウイルスの存在にも注目します。ウイルスはほぼ遺伝物質だけで出来た生物の一種ですが、細胞に寄生しその増殖システムを利用して自己複製を行います。この際に、宿主細胞の遺伝子に組み込まれたり、宿主の遺伝子の一部を自分の遺伝子に取り込んだりします。私たちのゲノムにも過去のウイルス感染の痕跡が数多く残されており、その一部は現在も生体機能に利用されています。特に有名なのは胎盤形成に関わる遺伝子で、もともとはレトロウイルス由来であったことが知られています。哺乳類の繁栄に不可欠であった胎盤が、遠い昔のウイルスとの関わりから生まれたという事実は驚きを禁じ得ません。また近年では、皮膚や免疫系の進化にもウイルス由来遺伝子が関与している可能性が示されています。
こうした事実を積み重ねながら、著者は「個体とは何か」という問いを深めていきます。私たちはつい、自分という存在を一つの独立した生物だと考えがちです。しかし実際には無数の微生物と共存し、さらにはゲノムの中にまで他生物の痕跡を抱えています。また、種によっては個体がさらに大きな群体の一部として機能している例も示され、個体という概念はますます曖昧になっていきます。
最終章では、これまで述べてきた生命集合体としての個体観をもとに、「私とは何者なのか」「自由意志は本当に存在するのか」という哲学的な問いへと読者を導いていきます。本書は、生命を理解することが、そのまま人間を理解することにつながるのだと気付かせてくれる一冊でした。
上野循環器科・内科医院 上野一弘



